失われた読書を求めて(猫)

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「センス」「才能」という言葉に一喜一憂する人たち | 中川淳一郎『好きなように生きる下準備』『夢、死ね!』

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「オレはやるぜ...」「何を?」「何かを」
    —自分のセンスを信じる人たち

目次

possibility でしか自分を評価できない人たち

possibility 
 — 可能性、見込み、将来性、発展の可能性、ありそうなこと

現実離れした「夢」を語る人たち

 久方ぶりに会った旧友が、仕事を辞め、あるいはほとんど働いておらず、にも関わらずキラキラした眼差しで自身のまったく現実離れした「夢」について語り始めるという場面に出くわした経験は、誰しも一度はある悲劇であろう。

 彼ら「夢」を語る人々は、自身の深層に何らかの「才能」あるいは「センス」が隠されていて、今はまだそれが現実化されておらず、あるいは世間に認められていないだけで、今後それらが現実界へ発揮された暁には、現在の状況が劇的に改善され、人並み以上の成功がそこに待ち受けているだろうことを、饒舌に語る。

 それは作家やアートなどの「クリエイティブ」な成功であったり、金銭的成功のみに特化した「経営者」だったりする。いずれにせよ自分には、人と違った特殊な才能・センスが潜在していることを信じて疑わず、信じることこそが彼らを成功へ導くのだと確信する。

やがて哀しき「クリエイティブ・ワナビー」あるいは「経営者ワナビー」

 彼らの多くはある種の自己啓発書を信奉しており、有名人の伝記に記されたありきたりの安っぽい言葉に勇気づけられ、これまで何の実績を出したことが無いにも関わらず、なぜか自身の成功を信じているのである。
 さらに悲惨なケースでは、口にあげる何らかの目的(起業でも、デビューでも)に対して、何の努力や現実的計画を持たないにも関わらず、通常の社会経験をもつ人間から見ればまったくの無根拠にも関わらず、これを信じ、発言するのである。

 普通に社会人として世の中を生きてきた社会人とって、彼らの夢物語は全き理解の範疇外なのであるが、哀しいかなそのことを理解せず、ただただ自らの「潜在性」に期待して未来の自分にうっとりする彼らの姿は、悲劇を通り越して喜劇である。

 かつては同じ机に座り、ともに遊び、ともに学んだ友の、変わり果てたその姿に、愕然とすることだろう。

「起業」を語るが、「何を」起業するのかは考えない人

 彼らは、あたかもそれが彼らの惨めな人生を救う唯一の手段であるかのような熱心さで、「起業」を語る。
 が、具体的に何をするか考えているわけではない。
 単に、起業さえすれば、自分もホリエモンのようなお金持ちになって豪遊でき、高級車に乗って一流レストランで食事し、今まで自分を見下してきた周りの奴らを見返すことができる、と信じている。

 彼らに共通するのは、「起業する」という動詞が他動詞であることを知らず、自動詞だと思い込んでいる点だ。

 本来、起業するとは「◯◯を起業する」といった使い方をすべきであり、焦点は目的語の◯◯の部分にある。しかしながら彼らは、「起業する」ことしか口にしない。なぜなら、具体的には何も考えていないからだ

「勉強」に人生を費やし、消費者に留まろうとする人たち

 彼らは労働を遠ざけ、「勉強」に時間を費やす。資格勉強の場合であったり、本を読むことであったり、あるいは単なるサブカルコンテンツの消費であったりする。

 すべて、自らの可能性・才能・センスを磨き上げるための時間であり、この蓄積がいつか「目的の国」において実現された暁には、彼の周囲のすべての人間が彼にかしずき、足下にひれ伏すだろうことを信じてやまない。

 もちろん、社会常識的な見地からいって有意義な「勉強」はこの世に存在する。
 例をあげよう:

  • 法律事務所を設立するため、行政書士の資格勉強をしている。
  • 不動産経営をするため、宅建業者免許を得るべく、宅建士資格の勉強をしている。
  • エンジニアとしてステップアップするため、大学院に入り直し人工知能の研究をする。

 これらはすべて、「目的に対する手段」としての勉強という意味において、有意義な範囲内にあり、何ら責められるべき点はない。

 が、しかし、世の多くのクリエイティブ・ワナビー、経営者ワナビーたちのする勉強とは、以下のようなものが大半を占める:

  • 「センス」を磨くため、映画を年間100本見る
  • 「センス」を磨くため、お笑い・演劇・小説を一日中見る
  • 「センス」を磨くため、有名な経営者ないし成金の自己啓発本を読む
  • 「センス」を磨くため、世界一周旅行に出る
  • 自らの possibility を拡げるため、市場とは全く関連性のない純学問的な勉強をする

 むろん、これらを「趣味」の時間として消費するのには何ら問題はない。問題は、彼らが労働に匹敵する将来への着実な準労働という位置づけで、これらを行う点である。

 彼らに共通しているのは、労働者としての責任をとりたくないということである。彼らの「勉強」の成果・結果は、他者に対して何の責任も有しない。したがって彼らのいう「勉強」「準備期間」とは、「消費活動」のことである。

 要するに彼らの欲望とは、生産労働の責任から解放され、「いつまでもお客様扱いされていたい」ということでしかない。

 労働に伴う責任から自らを免責し、先延ばしにして、消費者として永遠に戯れていたい、永遠に消費者として生きていたいというこのカスタマー・メンタリティは、言うまでもなく、親の資産や友人・知人の援助によってのみ成立している。

 彼らが口にする未来の成功、大げさな出世払いは、虚構にしか過ぎない。なぜならそれらは彼らの空想の中でしか存在せず、永遠に実現しないからである。

他人を「センス」「才能」で評価するワナビー予備軍

 現ワナビーではないが、将来ワナビーになる可能性の高い資質をもった人種というものも存在し、我々は、きゃつらに対して細心の注意を払わなくてはならない。

 具体的には、他者を「センス」「才能」といった possiblity にまつわる語彙、潜在性の次元で評価・批評する人々である。彼らは今のところ、社会人としてきちんとした労働に勤しんでいるかもしれないけれど、胸の内ではいつも「センス」「才能」といった評価基準に一喜一憂するワナビー予備軍であり、自身の無根拠な「可能性」を信じている者である可能性が高い。

 彼らが他者に対して下す「センス」「才能」といった評価は、将来自分自身に向けられるだろう潜在的評価の先取りであり、空想的享楽である。また、自身には他者を潜在性の次元で評価できるような「センス認識眼」なる能力、いわば「メタ・センス」が潜在しているのだということの婉曲的表明であり、空想的万能感の享楽である。

 若き社会人は特に、結婚相手を選ぶ際、相手方が「センス」「才能」といった単語を日常的に使ってはいないかどうか、注意深く観察した方が良いだろう。突然立ち上がって駆け出し、「俺はこんな会社で腐っている人間ではない、俺には、世間が気付いていないだけで、潜在的な才能があるんだ」などと狂気的な叫び声をあげ、会社をやめるかもしれない。

ワナビーへの反論は無意味

 彼らは社会的に成熟しておらず幼稚であり、社会的常識が通用しないため、社会常識の観点から反論しても意味が無い。
 なぜなら、たいていの自己啓発書には「社会常識を疑え」と書かれているからであり、彼らはその信奉者であるからである。

 博打にハマって破滅してゆく人間に説得を試みても無意味であるのは、彼らが「自分には博打の才能がある」と信じているからである。

 同様に、彼らに対して常識を諭すことが無意味なのは、彼らに説教をすればするほど、彼らは「こいつは俺の才能を信じていないが、今に見てろよ、いつか俺は、才能を咲かせて、こいつをあっと言わせてやるんだ」と、ますます根拠の無い万能感を強化するからである。

では、どうすればいいのか

我々は凡人

 我々は「センス」も「才能」もない凡人である。
 我々はまず「潜在性」の思考を捨て、ここから始めなければならない。
 そして、「センス・才能を磨いていこう」という発想も捨てなければならない。
 必要なのは、夢物語を保証するところの、無根拠な「センス」「才能」といった possiblity ではなく、現実的な「実績」である。

社会が正当に評価するような「実績」をつくれ

 さて、ここで、中川淳一郎を紹介しよう。

中川淳一郎
 一橋大学卒業後、広告代理店博報堂に入社し、3年間多忙な会社員生活をした後、フリーのライターとして独立。現在、ネットニュース編集者、PRプランナー、フリーライター。株式会社ケロジャパン代表。
Wikipedia::中川淳一郎 より

 中川淳一郎が我々にとって重要であるのは、彼が「3年間の会社員生活」を経験し、正常な社会常識を持ち合わせているからである。

 また、彼は、ワナビー特有の「会社は俺の才能を理解しない」といった妄想や、会社や上司への怨嗟をもつわけでもなく、3年間の会社員経験を活かした上で、独立した点である。

 さて、いったい我々はどうすればいいと言うのか。

 それは、「実績」をつくれ! これである。

 自身のまだ見ぬ「可能性」に賭けている場合ではない。
 我々は、社会から評価を得るような“実績”を積むべきなのである。
 それ以外の、「センスを磨くための修行」も、「マーケット外での活動」も、意味がないのである。
 マーケットあるいは民間企業で“結果”として有意義に評価されるような“実績”を作るべきなのである。

 中川淳一郎は著書『好きなように生きる下準備 』の中でこう言う。

 20代、30代に惨めな思いも含め、ブラック的な働き方をして良かったと考えている。
 また、35歳までに他者にとって分かりやすい実績を作れた、これは重要である。
 凡人が、かような実績を作る為には、ブラック労働はある程度必要。

 ヨミメモ::『好きなように生きる下準備』中川淳一郎 p.17 より

 中川淳一郎は、民間企業やマーケットの中、すなわち「市場で他者に必要とされる」=「需要のある領域」の中で、“実績” を残した。
 これは、ワナビー達が作る、自分や自分の友人らにとってのみ価値があるような “幻想の実績” とは違って、客観的に評価されるような基準である。

 ワナビー達がしばしば口にする自らの「実績」とは、マーケットや民間団体とは何ら関連のない、趣味的・個人的な領域での “実績” であり、それは端的に、彼の周辺の親密圏内での評価に過ぎない。

 例えばワナビー達が、「私は、私を愛してくれる人を見付けた。その人にとっては、私とキスすることは実に価値のあることなのである。」と言ったところで、それは当人の親密圏内でのみ通用する価値であり、市場的な意味で“実績”にはなり得ないのだ。それは例えば「彼の友人の間でだけ評判のいい自作小説」であったり、演劇・音楽・お笑いライブなど、「相互承認前提のイベントの開催」であったりする。

 周囲の人がどれだけ彼に期待し、どれだけ彼を「センスの塊」「才能ある人物」と見なそうと、社会一般的な指標に基づいた“実績”が無い限り、それは趣味の範囲内でしかないのだ。それは、「私のキスを1回1000円で販売します」と言うようなもので、彼の親密圏の外側、すなわち市場では、誰も買わない、誰にも必要とされていないことであるので、親密圏内でどれだけそのような評価を得たとしても、“実績”にはなり得ないのである。

好きなように生きる下準備 (ベスト新書)

好きなように生きる下準備 (ベスト新書)

 
専門分野を身につけろ

 中川淳一郎は、著書『好きなように生きる下準備 』の中で、「ラクな40代」を迎える為にやるべきことは、以下の2つに尽きると述べる。

  • 周囲が認める実績をつくること
  • 得意な専門分野を持つこと

  これがないと、40代から定年までの職業人生にはキツいものがあるかもしれない、そのために20代、30代はこの2つを身につけることを目指せ! 中川淳一郎はそう言うのである。

 さて、「周囲が認める実績をつくること」については、先述した。ここで「周囲」とは、自身の親密圏内にのみ認められるような実績ではなく、社会的・市場的に認められる実績のことであった。

 では、「専門分野を持つ」とは、どういうことであろうか。
 それはどのようなタイプの「専門分野」なのであろうか?

専門分野の2タイプ

 中川淳一郎は、専門分野を以下の2つに分類する。

  • あることをやり続けた結果生まれたもの
  • 実績を出したために周囲がそれを専門分野と認めるもの

 前者は、例えば会社の部署で専門的に特化したことをやり続けたことによって、得たものである。「この分野ではこの人に聞け!」と言われるような、専門家になることである。それは総務部においては知的財産権に関する手続きかもしれないし、人事部においては労働関連法令であるかもしれないし、あるいはITエンジニアであれば人工知能分野であるかもしれない。

 他方で後者「実績を出したために周囲がそれを専門分野と認めるもの」は、独特である。
 それは、「それまでは分野として成立していなかった」が、当人が実績を出したため「専門分野と周囲が認めたもの」のことである。

 中川淳一郎の例で言おう。中川は、インターネットがまだ日本に普及し切っていない時代において、ネットが世に言うようなキレイで未来の美しい社会を約束するようなものではなく、「バカと暇人のものである」ことを主張した。
 具体的には、『ウェブはバカと暇人のもの』という新書を上梓し、これがベストセラーとなった。このベストセラーこそ彼の実績であり、そして、これによって彼は「ネットの専門家」と見なされるようになった。これ以降、企業のPR部門が彼を招致するなど、民間企業からの様々な依頼が殺到し、彼はこれで多くの利益や人脈を得た。

 これは、それまでは存在しなかったが、既存の社会装置を通した実績(ここではベストセラー)を経由して初めて成立した専門分野である。そのため、そこには非常に大きな先行者利益がある。

 「自分だけの」専門分野を持ちたいワナビー達は、他者に全的に承認されるような夢物語を夢想するのではなく、また、永遠にお客様扱いしてもらえるような類いのセンス磨きをしている場合ではなく、このように、既存の社会装置を通した実績をまず具体的な目標に定め、そのために具体的に行動し、そしてこれによって専門家としての評価を社会から受けるようになること、これを出発点にするべきである。 

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 
「やりたいこと」ばかり優先すると、「何もできない大人」になる

 中川淳一郎は、著書『夢、死ね! 若者を殺す「自己実現」という嘘』の中で、非現実的な夢を追い求めるあまり悲惨な状況に至ってゆく若者たちに警鐘を鳴らし、自身の経験をもとに、地に足のついた仕事論を伝授する。

 中川曰く、世にあまたある「自己実現」幻想のせいで、若者は仕事について大きな勘違いをしている。彼の指摘する「勘違い」とは、「やりたいことを仕事にする」幻想のことある。それは誤りである。

 仕事とは、「上司に怒られないようにすること」ただこの一点に尽きるのである。

 にも関わらずメディアにはびこる「自己実現」幻想や、経営者や有名人たちによる、信者や印税を増やすためだけの、中身のないキレイゴトのせいで、若者たちは早々に会社を辞め、技能習得の機会を早くから逸し、「何も出来ない中年」への道を転げ落ちてゆくのである。

 仕事とは、もとより自身の「やりたいこと」ではなく、外部の要請によっておとずれる「(はじめは)つまらないもの」である。にも関わらず「やりたいこと」ではないからと仕事を放棄し、会社を辞め、「やりたいこと」の追求に人生の輝きがあると有名人ないし自己啓発書は語る。

 しかし、社会の真実とはこうだ。

 やりたいことばかり優先して、やるべきことをしてこなかった人間は、何もできない中年になる。

夢、死ね! 若者を殺す「自己実現」という嘘 (星海社新書)

夢、死ね! 若者を殺す「自己実現」という嘘 (星海社新書)

 

 まとめ

  • ワナビーは「センス」「才能」といった潜在性を評価基準にする
  • ワナビーは社会的な成熟を遂げてない幼稚な存在
  • 起業は自動詞ではなく、他動詞
  • ワナビーのいう「勉強」とは「消費」のことである
  • ワナビーの「カスタマー・メンタリティ」とは、「永遠にお客様扱いしてもらいたい」精神性のこと
  • 他者の評価に際し「センス」「才能」を口癖にするワナビー予備軍とは結婚してはいけない
  • ワナビーは自身への常識的反論を逆説的な養分にして肥大化する
  • 凡人としての自分から始めよう
  • 社会的に評価のある実績を積む
  • 親密圏内ではなく、その外部を見つめよう
  • 専門分野を身につければ、キツイ40代〜定年を迎えずに済む
  • 先行的専門分野も、社会常識の基準内にある実績を媒介すべき
  • 「やりたいこと」ばかりしていると、「何もできない大人」ができあがる 

参考文献

好きなように生きる下準備 (ベスト新書)

好きなように生きる下準備 (ベスト新書)

 
夢、死ね! 若者を殺す「自己実現」という嘘 (星海社新書)

夢、死ね! 若者を殺す「自己実現」という嘘 (星海社新書)

 
ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 

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