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20代30代の文系総合職の正社員が今すぐ読むべき自己啓発書 |『好きなように生きる下準備』中川淳一郎

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目次

20代・30代は人生の「準備期間」として最重要

 『好きなように生きる下準備』は、現在42歳である中川淳一郎(敬称略、以下同様)が、20代30代に向けて、楽な40代を過ごすためにアドヴァイスをする本である。仕事・お金・恋愛・結婚など話題は多岐に渡り、20代30代の、働く会社員からの相談に答えるという形式で本書は進む。

 なぜ20代・30代がターゲットとなるのかというと、それは、その後の人生に向けての「準備期間」として、この20年間が最も重要だからである。

20代、30代は、その後の人生を考えると「準備期間」としてはもっとも重要な20年。ここでいかに「良い時間」を送るかが鍵。
-- 中川淳一郎『好きなように生きる下準備』(p.70)

『好きなように生きる下準備』目次 

  • 第一章仕事編
     会社に頼らない生き方を目指してますか?
  • 第二章お金編
     お金で行動が左右されていませんか?
  • 第三章恋愛・結婚
     本当にモテる秘訣を知っていますか?
  • 第四章生活編
     SNSをやめてダイエットを始めてみませんか?
  • 第五章【人生編】
     20年後の自分は居心地いい状態ですか?
好きなように生きる下準備 (ベスト新書)

好きなように生きる下準備 (ベスト新書)

 

文系の総合職に向けた本

理系労働者と文系労働者の違い

 労働市場がグローバル化することが声高に叫ばれる昨今において、理系労働者は、自らの理系的「専門技術」を先鋭化する・または複数化することが推奨されている。
 他方で、大学の文系学部を出た文系労働者は、業務遂行上カヴァーすべき領域が広範囲に渡る割には理系的に深化されるわけでもなく、また生涯的に通用するだろう強度の技能習得の機会を得られることもない。
 入社時においては、特定分野への長期的従事が期待されるておらず、一方でITエンジニア・薬学研究者・工学開発者として採用された理系労働者が20年後も同分野内での専門技能を行使しまた技術の磨き上げが期待されているのに対して、他方の文系労働者においては、20年後の働き方が全く見えない。

会計・英語・ITは、「パソコンの大先生」

 もちろん文系労働者に対しても社会は、それによって人生の栄光が約束されているがのごとく大仰さで「会計」「英語」「IT」分野における一般的専門技能の習得を推奨するが、しかしながら理系労働者の専門能力を凌駕するわけではない。

 言うまでもなく公認会計士は専門技術でありしたがって理系であるが、日商簿記は文系であり、またワード・イクセル・パワーポイントを使えることは、村役場では「パソコンの大先生」になり得ても一般企業では「人間としての最低条件」でしかなく、あるいは確かに英語はコミュニケーションや情報収集の手段にはなり得るが、しかしながら米国においては子供でも喋れる類いのものであり、英語を通した専門技能(米国公認会計士や行政文書作成能力など)に特化しない限り、世界のYoshinoyaで皿洗いバイトをできる程度の価値しかない。
 要は、それら文系的技能習得は、理系的専門性を帯びる程度の強度を持たない限り、業務遂行上の「手段の手段」ではあっても「目的の手段」にはなり得ず、全くの無知の人に対しては効果を持つ一方で理系的専門性を前にしては価値をもたない。

 要するに、文系のいう「会計・IT・英語」とは、「パソコンの大先生」なのである。

実存的不安に怯える文系労働者

 かようにして文系労働者は、自らのキャリア人生の予測不可能性に突き当たり、たえず、将来のための現在をいかにして生きるべきかという実存的不安のなかを生きざるを得ない。
 一方で理系労働者がただ命令されるがままに電卓を叩き、定められた範囲内で同語反復的運動をする社会の端的な機械部品に過ぎないのに対し、他方で文系は企画を作成し、人を動かし、市場を動かして社会を動かし、政治を変え、新たな現実を構成する、人間社会の能動的行為体であるがゆえに、その複雑性ないし可能性は計り知れず、したがって実存的不安は理系の比ではない。

 本書はそのような不安な20代・30代を過ごす文系的労働者のための、40代のおっさんからの貴重なアドヴァイスである。

良き自己啓発本としての本書

 本書は自己啓発本であるが、しかしながらターゲット層が明確に規定されており、幅広い社会階層に対して開かれているわけではない。

 具体的には、単純定型労働に就くパートタイム労働者やアルバイト、反復的な感情労働を生業とするサービス労働者は、読者対象に含まれていない。

 本来、自己啓発本というものは、開かれた人々に向けて書かれるものである。
 にも関わらず本書は、ターゲットが文系・総合職・正社員に限定されている。これは、どういうことなのだろうか?

 説明しよう。

一般的な自己啓発本の作られ方

 著名人が自己啓発本を出す場合、通常、以下のようなコースで本の内容が決定される(なお自己啓発本専門作家や、それがデビュー作となる作家の場合はこの限りではない)。

  1. 特定分野でベストセラーをあげた作家に対し、編集者が売上見積書をもって営業し、契約を結ぶ。
  2. 次に、どのような内容の自己啓発本にするかを編集者が考える。
  3. 編集者の作成した箴言をもとに、作家が文章を構成する。
  4. 編集者による随時チェックと、言いなりになる作家。

2、3、4については説明が必要だろう。詳述しよう。

どのような内容の自己啓発本にするか、内容を編集者が考える

 自己啓発本の内容は、社会情勢やマーケット分析の結果、決まる。
 インタネットの発達した現代であれば、ネット言説の分析を行いこれを決める。例として、Twitterをあげよう。

Twitterのビックデータ解析で市場調査

 まず狙い目のアカウントを大量にリストアップする。現状に不満をもつ貧困層のアカウントのリストアップを例にとろう。例えば、貧困層が好む娯楽に関するアカウント(例えばソシャゲや2chまとめ)をフォローし、かつ知的水準は低いがなぜか勇気づけられたり自分が賢くなったような気分になる著名人アカウントをフォローし、しかし知的水準または専門的水準の高いアカウントは一人もフォローしていないユーザーを、一斉に探索し、リストアップする(これらは、部署に一人はいる出版社お抱えのエンジニアが行う場合もあるし、外注する場合もある。弱小出版社の場合は、エンジニアがいないので外注するか、編集者が手作業でイクセルに入力していく)。
 上記の結果リストアップされた膨大な数のユーザー群に対して、特定ワードでツイート検索をかけ、結果を形態素解析にかける(編集者が手作業の場合は目で手動解析する)。例えば日頃関心のあることや悩み事や欲望を、語彙の登場回数のランキングにしてイクセルにまとめる。むろん、独自性のない一般名詞はこれを取り除く。これらを、編集者がもんもんうなりながら幾日か眺めて、自己啓発的な箴言(短い句)を作成する。

※ 上記は一例であり、ユーザーのクラスタ制限をなくして特定語彙や特定URLで一斉検索する場合もある。
※ 一般的には、作家のネームバリューが大きいほど、幅広い層にターゲティングするのが(売上的に)良いと言われている。逆に、そこまで著名ではないがモテないオタクに向けた本でブレイクした著者の場合は、アニメアイコンのユーザーのツイートばかりを分析して箴言を作成する。
※ 外注を受ける側の業者は、様々な事情に特化した、有名人アカウントのフィルタリングリストを持っている。例えば知的水準指標のほかに、業種別、学歴別、年収指標は当然として、性差別親和指標やレイシズム指標、自己懲罰親和指標や政治的指向性の指標などがあり、またそれら組み合わせ方のテンプレートなどもある。ところでこれら業界は非常に特殊である。なぜなら、純粋なエンジニアは社会認識眼やコンテンツ読解能力が欠如しており、システム作りしか能がないが、他方で編集者はその逆だからである。両者の連携がうまくとれる会社は、業界でもかなり希少であり、少人数でやっているベンチャーが多い。合併したカドカワ・ドワンゴが当業界に参入すると言われていたが、費用対効果が小さい(出版は落ち目なので)ため、たぶん参入してこない。

作家が文章を構成する

 次に、編集者の作成した箴言をもとに、作家が文章を構成する。
 例えば編集者が「嫌いな上司の飲み会には絶対に参加しろ」という箴言を作ったとすれば、作家はそれに対して、その箴言の正当性を考え出し、また思い当たる経験を脳裏に喚起し、これをもって解説を書く(あたかも自らの魂から出来した箴言であるかのごとき憑依的熱情をもってだ!)。思い当たる経験が無い場合は、言うまでもなく捏造する

編集者による随時チェックと作家による改修

 文章ができたら、作家はその都度、メールで編集者に送信し(年配の作家の場合はファクシミリを用いる)、ターゲットユーザが傷つくような表現がないか逐一編集者がチェックし、見つかった場合はこれを指摘し、作家は市場に憑依してこれを改修する。

 かようにして、自己啓発本、すなわち、現状に不満を抱く人々のための呪術的慰安装置としての自己啓発本が完成する。

「祈り」としての自己啓発本

 自己啓発本は、なぜこのような経路で作成されなければならないのか、なぜ作家が自らの言葉で書いてはいけないのか。これは、自己啓発本における箴言の効果が、宗教におけるお経のようなものであるからである。どういうことであろうか。説明しよう。

弁別機能のない自己啓発本

 たいていの自己啓発本には、非常に範囲が曖昧で抽象的な表現が含まれている。「他人の評価に依存せず、好きなことをして生きろ」などだ。これは、職業選択上の重要決定に援用できるし、倫理的によくない行為や触法行為をする際にも援用でき、別言すれば、外延が広過ぎ、いかようにも援用できるため、概念的弁別の意義をなさない
※「概念的弁別」とは、概念的思考を用いて、それが何であり、何でないかを線引きすることである。

 例をあげると、先の箴言からは以下のような具体的判断が演繹可能である。

  • 「私は親を継いで歯科医になんてなりたくない、私は広告会社に勤めたい」
  • 「私はサラリーマンになんてなりたくない、声優になりたい」
  • 「私は刑法という社会的評価に依存しない、私は◯◯をしたい」(◯◯は刑法犯罪行為)

上記いずれも、当該の箴言「他人評価に依存せず好きなことをせよ」から演繹可能であるという点に、当の箴言の無意義性が見て取れる。すなわち、抽象的過ぎ、射程範囲が広過ぎて、具体的演繹の判断ツールに使えないのである。これは概念的思考の観点から言えば、意義がないのである。

文脈自由過ぎる自己啓発本

「私は、本当に好きな物事しか続けられないと確信している。何が好きなのかを探しなさい。人の意見に左右されずに。」など、文章を物理的に長くしても同じことである。これら類いの箴言は、文脈依存性が低く、過剰な文脈自由性をもっており、また、世間一般的な通念を同語反復的に言い換えただけなので、何ら弁別的意義をもたない。
 もし仮に当該言説に任意の限定性を持たせようとすれば、付帯条件が膨大となり、判断に司法的に長期の時間・手続きが必要とされ、とっさの判断に援用できず、有用性が著しく低減する。

 例えば「他人の評価を気にせず好きなことをせよ」に続く付帯条件として、職業選択上の判断であれば、声優を除外するために「但し実現不可能なものは除く」、経営者を含めるために「但し頑張れば実現可能なものはOK」「頑張れば実現可能な度合いとは、パーセンテージで言えばこれこれで、但ししかじかの観点/分野においてはかくかくであり〜」と続けていく必要がある。
 違法行為を除外するのであれば「但し社会的良識に従え」「但し社会的良識とはまず法を犯さないこと、また社会的慣習に従うということであるが、しかしながら未来にかけて変わるであろう社会的慣習もあるため、なんたらかんたら〜。また法的にグレーでもなんたらかんたら〜。時には法を犯すことも〜〜」「但し将来において良識とは必ずしもならないが現在的には他者の幸福に繋がる行為もあり、しかしこれにはしかしかこれこれであり〜」

 これでは誰もその自己啓発本を読もうとはしないだろう。
 従って自己啓発本は、過剰に抽象化・文脈自由化する傾向にあり、したがってやはり、意義をもたない内容のない書物になってしまう運命にある。

なぜ人は自己啓発本を読むのか

 しかし、そうであるのならば、なぜ、人々はあれほど熱心に自己啓発本を読み、これを日々心中で唱えるのか。それは、自己啓発本とは、自らの行為を正統化するための「祈り」にほかならないからである。
 「他者の評価に依存せず自らの信ずることを行為せよ」との箴言は、概念的思考の見地からいえば何ら判断の弁別に援用できず有用性をもたないが、しかし自らの行為を正統化するための祈りとしては、価値があるのである。

  • 過剰な親の干渉を振り払いキャリア選択の決断を今まさに下さんとする学生
  • 懐に忍ばせた辞表の厚みを汗ばんだシャツ越しに感じながら自社ビルを見上げる会社員
  • 懐に忍ばせた刃物を握りしめ恋敵のアパートのドアの前に立つ青年

 彼/彼女らにとって当の箴言は、行為を実行へ導くためのエネルギーの源泉となる。その言葉が何の判断材料にもならず何ら概念的弁別性をもたないとしてもだ! あたかも、行為言説に価値も意味も必要性もないがただ端的に筆頭株主というだけで真正性を帯び独自の権威が付与される代表取締役社長のように、我々はその固有名、あるいは固有の経歴や資産によって権威づけられた当該著者の言葉に憑依する。祈り、彼は憑依して、私となり、私の血肉が、これを執行するのである。

 この呪術的・権威主義的「祈り」の効果こそ、人々が自己啓発本に求める当のものにほかならない。

無意義性を隠蔽する自己啓発本

 そして、箴言をしてかような呪術的効果を発揮せしめんとするためには、当の箴言に文脈限定的な弁別機能があってはならない。あくまで、読者の意思に沿ういかなる行為に対してもこれを後押しし執行へ導く効果をもつ、抽象性・無意義性こそが、ここで必要とされているのである。
 このとき重要なのは、この無意義性を隠蔽するために、ある程度の弁別機能をもった、社会通念の延長上に必要最低限はのっている程度の、同語反復的意味合いを、箴言に帯びさせなければならないということ、これである。ここで「同語反復性」とは、前提と結論が同意味または内包関係にあるため意義をなさない文の事である。例えば、「(あなたが幸せになるためには)自分の好きなことをするべきである」という文を見てみよう。「幸せになる」ことと「自分の好きなことをする」は、ほとんど同語反復的である(精確に言えば、「同語反復指数が相対的に高い」となる)。「長期的に幸せになるためには短期的には嫌なことも〜」等の付帯条件が付されない限り、「好きなことをする」は「幸せである」と内包関係にあるか、または同一の意味を帯びているのであって、文のブロック間に差異が存在しない以上、両ブロックの接続に価値は発生しないのである。これは、コミュニティ間で商品の価値に差異が無ければ、貿易に意味がなく商業意義が成立しないのと同様である。にも関わらず上記箴言は、「幸せになるために自分の好きではないことをする」によって想像される事態とは弁別可能であるがゆえに、読者は当の箴言に、自身にとって有用な弁別機能があるかのごとく、錯覚するのである。

自己啓発本はなぜ買われるのか

 では自己啓発本を買う人は、何を買っているのか?

 著者の権威である。権威を源泉とする生のエネルギーである。
 「権威」とは、「権力」とは違って、対象に権威を感じる人にとってのみ効果をもつ内面的感情のことである。
 人は、自己啓発本に書かれた過剰に抽象的で無意義な文を唱えながら、著者の顔=固有名や、年収・学歴・スペックに憑依しているのである。これこそが読者の求める自己啓発本の効果である。自己啓発本が現代の宗教的儀式といわれるのは、この呪術的効果の故である。

有意義な自己啓発本はいかにして可能か

 では、著者(や著者のスペック)の権威に憑依する形でのみ価値をもつ呪術的自己啓発本と違って、有意義な自己啓発本とは何か。それはいかにして可能か。

 ここでは2つ、可能な形式を記しておこう。

きちんとした自己啓発本の2形式:

  1. あくまで抽象性にこだわり、付帯条件により膨大な概念世界を構築する
  2. 箴言に、固有名・固有の歴史を付帯する

 1 に関しては前項で説明した。
 2 はいったい何なのであろうか。
 それは、著者の実際の経験を、箴言に沿った形で陳列し、箴言を文脈依存的にすること、これである。

きちんとした自己啓発本の具体例

 例えば、中川淳一郎著、『好きなように生きる下準備 』には、以下のような箴言が含まれる。

「人生の主導権を他人から自分に移してみよ」

 これだけ見れば、以下のような行為を演繹可能である。

「私は国家に主導権を奪われている、刑法に束縛されているのである! しかし今こそ人生の主導権を自分に移す時がきた、したがって俺は電車で毎朝見かけるあの娘の帰り道をつけ、今日こそ◯◯しよう!」(◯◯には、非道な行為が入ると考えればよい)

 しかし、本書『好きなように生きる下準備 』には、上記箴言にともなって、著者自身の固有の経験や、実在する事件の記述が続く。具体的には、東日本大震災から5年経った頃、自治体のトップに30分間の電話取材を申し込んだ時の話で、依頼側である著者に、相手を動かすほどの主導権がなく難儀をしたこと、また、某ジャーナリストのYahooニュース取材拒否事件、また、著者がフリーランスになった際の確定申告やウェブサイト作成にまつわる話である。*1
 このように、著者の具体的で固有の経験に即して紡がれた箴言は、個々具体的な判断の際に弁別的であり、有用性がある。すなわち、固有の歴史が付帯条件として機能することによって、当該箴言が何を演繹し何を演繹しないかの境界が有用レベルに収束し、したがって個々具体的な弁別に援用可能となるのである。
 例えば刑法に触れるような行為をする際に中川の「主導権を自分に」箴言は援用できない。なぜなら中川の推奨する「主導権」が上述したような具体性から連想される、適法行為範囲内の職業遂行という固有の限定性を帯びているからであり、そこにおいて当該触法行為は対象外だからである。
 また、上述例を付帯条件として帯びた「主導権」は、その語から一般に連想される可能性に対して限定的であるため、個々具体的な場面で有意義な弁別が可能となる。「今からすべき海外輸出手続きは自分には専門外なので自分が主導して行う必要はなく海貨業者に外注しよう、中川が確定申告やウェブサイト制作を外注していたように、主導権を握るといっても、専門外の技術や知識に関しては外部の人に相談して委任すればいいのだ」と考えることができる。

売上のために呪術化してゆく自己啓発本

 ところで、こう思われたかもしれない。たいていの自己啓発本には、著者固有の経験が記されてあり、したがってそれが箴言に限定性を与え、有用な弁別性があるのではないか、したがって中川淳一郎の『好きなように生きる下準備 』が、他に比して特別に有意義な自己啓発本であるというわけではないのではないだろうか、と。

 もちろん、世のほとんどの自己啓発本には、いくつかの付帯条件が明記されており、あるいは著者固有の経験や社会的事件が付帯されている。その意味では、上述したような、箴言に固有名(固有経験)を付帯することは、自己啓発本界隈では一般的ではないのか、といった疑問が生ずるのも当然である。

 確かに、その通りである。
 しかし、私が指摘したいのは、こうである。
 一般に「売れる」自己啓発本は、経験を抽象化して箴言を精製する際に、付帯する固有の歴史を忘却せしめるような構成をとって限定性を解除し、呪術化に最適な形式で読者に配布しているということである。

呪術的な自己啓発本の欺瞞

 例えば、「俺は会社に新卒入社して一週間で“合わねーな”って思ったからすぐに辞めて、ミュージシャンになることにした。人は、自分の好きなことをして生きるべきだ」的な人気バンド歌手のナルシスティック自己啓発は、世に溢れているだろうが、常識を備えた成人であれば、違和感を感じざるを得ず、何の意義ももたない発言であるだろうことは首肯してくれるだろう。だがしかし、基本的には、呪術的自己啓発本はこの形式をとる。彼らは、付帯条件(この歌手の成功を支えた条件・歴史等)を捨象した上で、「自分の好きなことをして生きれば成功する」というメッセージだけを配布する。そして読者は「祈り」としてこれを唱えるのである。

 別の例をあげれば、『中卒、借金300万でも年収1億円』という自己啓発本がある。これは、年収300万円、1,000万円、1億円の人の違いを書き記し、成功者(=年収1億円)になるためにはどう生きるべきかを記した書籍である。著者は、90年代にいち早くアフィリエイトサイトに手を出しその業界のトップランナーとなって、資産を溜め込んで今は全国でセミナーなどを開く人物である。まず、我々はアフィリエイトサイトで一儲けできるような環境をもつような偶然性に恵まれているわけではないし、そもそも今は90年代ではなく、アフィリエイトサイトが一般的ではないようなブルーオーシャンな時代には生きていないし、また、「90年代のネット黎明期にアフィリエイトで稼いで資産を持っている」わけでもないので、これら付帯条件を捨象してあれこれ抽象的な箴言を提示されても、まず前提が違う。にも関わらず、付帯条件を排した当の箴言のみが独立して、読者に配布され、呪文として消費されているのである。*2

ホリエモンやスティーブ・ジョブズの名言は我々に援用可能か

 考えてもみれば分かることだが、多くの者は雇用されて働いているわけで、今まで一度も雇用された経験のないホリエモンの人生語録を読んだとして、前提条件に重なる点がないため、箴言の詠唱は発声練習にしかならない。スティーブ・ジョブズの名言をいくら唱えたとて、米国に住み彼のごときこれこれの知識がありこれこれの技術を持っているわけでもないため、再現性が低い。

 むろん、付帯経験を厳密に列挙していけば、あらゆる再現性は消滅して固有の代え難い過去の事実と化し、あらゆる助言は援用不可となるため正確な言い方をすれば「程度の問題」でしかないわけではあるのが、やはり我々自身と大きく乖離した状況・偶然にあった人物の短いアドヴァイスを真に受けた所で、自己言及的な呪術的効果(自分にとって権威のある人の言葉だから自分にとって価値がある)以外のなにものをも得られないだろう。したがって我々が求めるべきなのは、人生上の決断において弁別的な思考を与えてくれる、身近なツールとしての自己啓発本である。

 『好きなように生きる下準備』は有意義な自己啓発本である

 対して本書は、文系学部出身で、かつ、労働者として大企業に4年間努め、辛苦を舐めながらフリーランスを続けた著者による自己啓発本であり、状況限定的であるがゆえ、「20代・30代の文系・総合職・会社員」の我々にとって有意義である。

 また本書は、安易な自己啓発本にあるがごとく、必要条件と必要十分条件の欺瞞的な混同や、成功へのカジュアルな約束が記されてはいない(例:経営者的な金持ちになるためには、会社を辞めて起業することは必要条件だが、充分条件ではない。つまり会社を辞めたからといって必ずしも金持ちになれるわけではない。が、劣悪な作家は両者を混同して読者に呪術を施す)。

 本書は、仕事やお金、結婚や恋愛のことについて、著者の経験を交え淡々と記されているだけである。かといって無難な内容というわけではなく、社会通念との間に差異があるため読者にとって未知から既知への転換がおこる領域がある、つまり剰余価値が発生する。仮に著者のようなフリーランスの道を目指さないことことにした者にとっても、「自らの選択しなかった可能性」として参考になるだろう。

 著者自身は、本書の中で、成功への約束を保証しないことを強調するために「この本は自己啓発本ではない」と記しているが、しかしながら「20代・30代の文系・総合職・会社員」の我々にとって、啓発的であることは間違いなく、自己啓発本である。

なぜこのような本が可能なのか

 普通の編集者であれば、中川淳一郎のようにネームバリューのある作家に対しては、読者を心地よくさせるような、呪術的自己啓発本を書くように営業をかけることだろう。甘い桃の方が、苦い桃よりも売上見積もりが高いからであり、売上が伸びることによって編集者のボーナスが跳ね上がるからである。

 したがって編集者は作家に対し、自らの望む形式と内容を備えた文を書いてもらうよう、あの手この手を使ってなんとか誘導する。編集者というものは一般的に、作家になれなかった者がなる職業であり、作家に対してルサンチマンを抱いているから、基本的には作家を心の底では見下しており、作家が社会から受ける評価なんてものはどうでもよく、したがって作家が「商業作家」と揶揄されようと嘲笑を受けようと、編集者の悦びにはなり得ても、ダメージにはならない。売れさえすればそれでいいのである。もちろん、売れないことのみが編集者のダメージである。

 もちろん、そうでない編集者も世の中にはいるのではあるのだけれど、しかしながら基本的には、やはり編集者というものは作家に対するルサンチマンが生の活力の源泉であるので、基本的には作家を、考える能力のない愚鈍な生き物と考えている節がある。作家を思い通りに操ることによって自身の考えを世に送り出し、作家が評価されることをもって自身への評価と見なし、生の充実を得るのが人生のよろこびであって、畢竟するに作家は編集者にとっては単なる操り人形であって能動的な主体ではなく、したがって作家の個性やオリジナリティといったものを軽視するのである(正確にいえば、作家を幻想だと思い込んでいて、作家は総てゴーストであり、真の実在は編集者だけだと考えている)。

編集者と作家の権力関係

 であるからして、本来であれば、本書の著者、中川淳一郎は呪術的自己啓発本を書くはずであった。しかしこのたび、そうではない。中川淳一郎的な書籍が見事ここに上梓されたのである。

 このような偉業は、いかにして可能であったのか?

 これは単純な理由で、実に身も蓋もない話なのである。単に、編集者より中川淳一郎の方が年収が上だったからである。中川淳一郎は専業作家ではなく、様々な事業を運営しており、そのため自身の経営する会社を経由して、年数千万円の所得がある。そのため、たかだか数百万円の年収しかない編集者は、中川淳一郎に対して頭が上がらないのである。したがって編集者は、作家を操作することによって商業的成功を計算することも、作家をして自身の思想を語らしむこともできなかったというわけだ。

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本記事のまとめ

  1. 20代・30代は人生の「準備期間」として重要
  2. 中川淳一郎の新著『好きなように生きる下準備』は、20代、30代の文系・総合職・正社員にとって有用性がある自己啓発本
  3. 会計・英語・ITは、「パソコンの大先生」
  4. 自己啓発本は、呪術化している
  5. 人は「祈り」のために自己啓発本を買う
  6. 編集者は、作家に対するルサンチマンで生きている
  7. 中川淳一郎は、編集者よりも偉い

総括

 今回は、本書が誰をターゲットにした書籍であり、ターゲットが明確であるがゆえに自己啓発本として優れているということを説明した。
 次回は、具体的に、20代〜30代の文系総合職の会社員が、いったいどうやって生きて行けばいいのか、本書第一章「仕事編」を中心に、解説したい。

 

参考文献

好きなように生きる下準備 (ベスト新書)

好きなように生きる下準備 (ベスト新書)

 

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*1:最後の例に関して、厳密には、架空の会社員への副業提案として記述されているが、これは著者がフリーランスになった際に経験したことに基づくことが明らかなため、こう記した。

*2:厳密に言えば、この本は固有の経験と箴言を結びつけることさえしてなかったりする箇所が多く、どちらかといえば必要条件と必要十分条件の混同を狙った意図的な書籍である点に特異性があるのであるが、説明に便利なためこうしておく。